あのころ、わたしは13歳だった。
長期休み明けには必ず塗料のにおいが充満していた真新しい小学校へ、ほぼ開校と同時に入学したわたしたちは、ニュータウンの開発で膨れ上がっていく人口に対応するために増築を繰り返す校舎とともに大きくなり、卒業しました。
住宅地には小学校がふたつ、中学校がひとつしかなかった。
隣町の小学校を卒業した生徒と、わたしの卒業校からのそれぞれ40人5クラスがそのまま、ふたつの河が合わさって運河になるように合流して入学していました。
かくして40人学級が10クラス(大体42~46人が一クラスだった)、
全校生徒1500人近くにもなる中学校は、当たり前のように荒れていました。
そんな中学で、図書室はひっそりとしていたものでした。
司書の先生があまりやる気のあるタイプではなかったのもあるでしょうが、中学なんて資金を食うものさぞたくさんあったのでしょう。
蔵書はけっこうしょぼかったです。
そんな中に、綺麗な表紙のハードカバーが何冊もあったのです。
小学校で『空色勾玉』や『魔法使いハウルと火の悪魔』などのジュブナイルを好んでいたわたしには、あまり向いていそうにないな、と思って眺めていたその時でした。
「それ、面白いよ」
そう教えてくれたのは隣町の小学校を卒業した、クラスメイトの女の子の親友だと紹介されたTさんでした。
それがわたしと長野まゆみの初対面だったように思います。
最初に読んだのは何だったかももう思い出せないのだけど、順当に『少年アリス』や『野ばら』あたりじゃないのかなあ。
母の持っていた『パタリロ!』で、いわゆる少年愛ものというジャンルは知っていたけれど、小説とう媒体では初めてで、衝撃を受けました。
(小説でもこういうものがあるんだ!なんて、感動を覚えたものです)
もって回った言い回し、旧かな遣い、アルファベットや漢字にルビで意味を複雑にする表現。
背伸びしたい年頃の小娘にはたまらない世界観。
さすがに「行ってみたいな、童話の国』『綺羅草紙』あたりでひるみはしたものの、棚にあるものを読みつくすのに大した時間はかかりませんでした。
その後、文体というより難読漢字フェチみたいなものに罹患したわたしは、順当に京極夏彦の妖怪シリーズに傾倒したり、母の影響で時代小説などにハマリこんだり。
そうして、あの雲母の煌く透明な世界とは縁遠くなりました。
(昭和終わりごろ生まれの、腐に心得のあるおたく女子なら一度は読むよね京極堂)
彼女の世界と再会したのは、市民図書館でした。
わたしは28歳になっていました。
乳離れした子どもが、読み聞かせる絵本に興味を持って、破る折るなどの狼藉を働かないと確信が持てて、やっと。
やっと来ることができるようになった図書館でした。
妊娠中から数えればもう何年もろくに読書をしていなかったわたしは、小さな古い図書館の棚の間で、正直なところ途方に暮れました。
どの本を選んだらいいのか、どの本なら面白そうなのか。
自分が読みたい本はどれなのか。
勘が鈍ってしまって、わからなかったのですよね。
絵本を何冊も選んで、重くなった袋と退屈でぐずる子どもを両手に抱えながら借りた本は、結局毎日の雑事に紛れてしまって読むこともなく返却日がすぐに来てしまう。
そんな日が続きましたが、わたしは図書館に行く口実ができるのさえも嬉しかったです。
そんなときに、眼が吸い寄せられた著者名がありました。
長野まゆみ著作は、記憶の中にある図書室の棚の数倍にもなっていました。
かつて読んだ『少年アリス』の背表紙の頼もしかったこと。
そして手に取ったのが『
ささみみささめ』でした。
頭をぶん殴られたようなショックを受けました。
夕方のEテレを見ながら踊る子どもの脇で読みました。
子どもを必死に寝かしつけて読みました。
結局一晩くらいで読み終わるのがもったいなくて、少しずつ少しずつ、数日に分けて読み進めました。
あんまりにも面白かったのと、
あんまりにも衝撃的だったから。
長野まゆみといえば、先述したように「文体」が非常に特徴的な作家だと思っていました。
それが、まるで別人のように「ふつうの」話し方で、優しく語りかけてくる。
かと思えば、かつてのような冷たい意地悪さでこちらの胆を凍りつかせる。
そのくせ、いきなり甘い関係をほのめかす。
『ささみみささめ』は短編小説集なのですが、登場人物が非常にバリエーションのある読み応えのある一冊です。
熟年や老年の女性の一人称の小説があるのに驚き、その完成度の高さに舌を巻きました。
言っては悪いけれど、長野まゆみという作家は「のどごし」を味わう小説家だと思っていたからです。
目で透明感と清涼感を楽しみつつ、口に含んだ冷たさにひやりとしながら炭酸に喉を焼かれ、飲み下したあとはけろりとしていられるソーダのように。
その評価が一転しました。
これは、まぎれもない、大人向けの小説だから。
見た目は優し気に、口に含めば濃厚、意外にもするりと飲み下した後にじわりじわりと臓腑を焼く、きついお酒のように。
かつての文学少女たち、わたしたちを、長野まゆみは受け止めてくれたと思いました。
成長して、おとなになって、酸いも苦いもあることを知ってしまったわたしたち。
ひととき、浮世のわずらわしさを忘れさせてくれながら、
「ねえ、人間やってくってめんどくさいよねえ」
って肩を抱いてくれるようなそんな頼もしいお姉さまのような。
頼もしくて面白い、底なしの長野まゆみワールドに「里帰り」してみませんか。
PR